2016-04-27

第10回 2016年度のはじまりに向けてのそれぞれの状況

みなさんこんにちは。南浦です。

「これからの社会科研究会」と銘打ってはじめたこのオンライン研究会ですが,立ち上がろうとした矢先のメンバーの出産,「オンライン」という構造上難しい発信の問題などがあり,遅々としてうまく進んでいない面もあります。以前のように学校現場の先生を巻き込んだ「朝活」「夜活」のような形で満足に動かせない状況もあります。
どうぞお許しください。少しずつ,「今-ここ」の状況から最善の活動をしていきたいと思っています。

さて,2016年度に入り新たな活動を考えていきたいと思っています。

上にも書いたようなメンバーの状況も刻一刻と変わる中,定型的な活動を構築できずにいますが,もともとの研究会の始まりのキーワードには「実践を状況的に考えていくこと」「当事者として実践をどう記述するのか」というキーワードが間違いなく入っていました。まずはそこからということで,メンバーの中でも大学教員であり,(いいのか悪いのかは別として)日中にスカイプ会議を行う時間を取りやすい後藤・川口・南浦の3名がまずはスカイプで今年の自分たちの実践を行う状況,そこでやろうとしていることを共有することになりました。

今回は,こうした互いの仕事の状況や立ち位置,そこでやろうとしていることについての話になります。

南浦の場合

まず私,南浦は2016年度にあたって大きく職場状況が変わりました。2015年度まで,約5年半いた山口大学での小学校総合選修と社会科教育選修の兼任の仕事から異動になり,4月から東京学芸大学の国語教育の中の,日本語教育分野の担当をしています。

大学教員にとって職場である大学の異動自体はままあることですが,その中で「専門分野の異動」を同時に行うことはそれほど多くなく,私にとっても「これまで」をそのまま移した形はできず,新たな教育実践を模索する状況になりました。


ここでの私にとってのミッションは,「日本語教育」という学校教育の世界にとっては馴染みのないキーワードの領域を,学校教育の教員養成として行っていくことにあると捉えています。

従来の「日本語教育」は基本的にはその対象の学習者を,留学生や日本語を学びたい外国人,技能研修生や地域の在住外国人といった「成人」を対象にしていました。ところが,グローバル化の中で,近年学校の中には必ずしも「日本語を母語とする日本人の子ども」だけではなく,両親や一方の親が外国につながりを持っている子どもたちが相当数増え始めています。こうした子どもたちに対する日本語指導,あるいは教科指導やアイデンティティの問題,受け入れ側の教室や学校,地域のあり方の問題は非常に重要な課題となっています。

ところが,多くの大学の教育学部にある教員養成のカリキュラムの中では,こうした問題を扱う場が存在していません。逆に日本語教育のコースは上述のような経緯から「成人対象の日本語教育の教師育成」を前提として動いていることもあり,「教員養成カリキュラムとしての日本語教育」というのはなかなか現実的には構築されていないというのが現状にあります。

東京学芸大学も,2015年度からの教育学部改組に伴って,従来独立的に存在していた「日本語教育コース」は,「国語教育コース」の中の一分野になりました。これは私にとっては一つのビックチャンスだと捉えています。高校までに子どもを対象とした日本語教育の存在に触れるチャンスはもともと少なく,そうした針の穴をさすほどの数の学生にのみ専門的見地を伸ばしていくよりは,「日本語教育には全く関心はなく,『国語の先生になりたい』『学校の先生になりたい』と漠然と思っていた学生たちに対して,『日本語教育』の視点をつけていく,また,『日本語教育』の観点を得ることによって従来の学生たちの素朴な『国語教育観』『学校観』『教師観』を再構築させていく」ことの方が,より大きな意味を持つと考えています。そうしたカリキュラムを作っていきながら,実践をしていこうと考えています。

後藤の場合

後藤さんは,山梨大学で3年目を迎えます。

その中で,今回一つ行わなければならない実践として「地域指向型」の授業をしなければならなくなっています。

近年,多くの国立系大学では,「大学の地域的貢献」は一つの重要な教育課題になっており,そうした流れは大学の授業にも反映してきます。(南浦も山口大学時代に『山口と世界』や『コミュニティデザイン演習』でそうした実践を行っていました)

後藤さんが考えているのは,「自分と山梨」というキーワードをもとにすることと,もう一つは「キャリア形成」の視点を入れていくことが課せられた課題となっているそうです。

もともとは別の先生が始めたもので,「将来の夢」とか「職業学習」のようないわゆる小中高で職業調べをするようなところから始まっていたものに,「地域」の視点をどういれるかが後藤さんの検討課題となっていたようです。

私(南浦)がこの話を聞いて思い出したことは,山口にいた時に「山口と世界」での雑誌作りをする実践を通して得たさまざまな地域の人たちのことでした。その中で,よく私が用いていたフレーズが「就職するということと仕事をするということは違う」という話です。

この元ネタは『就職しないで生きるには』(レイモンド・マンゴー,晶文社)という本ですが,私たちは学校の教育の中で「どの職業に就くか」という話は大変多くします。しかし「どのように仕事をするか」の話はあまりしない。就職しようがしまいが,いずれにしても「学校」という場を出た後は,私たちは食べていかなければならず,住まいを得ていかなければならず,そのためには金を稼がなくてはならない。金を稼ぐためには他者に何かをしていかなけれならない。そうしたことの行為の中で「仕事」が生まれ,生活サイクルが生まれていく。「就職」というのはそのサイクルを自分に作る最も単純な形の一つに過ぎないということ。

山口で出会ったたくさんの人たちの中には,「就職していないけれど仕事をしている人たち」はたくさんいたし,その人たちは常に社会的行為の中で仕事と生活を行っていました。ところが,学生たちの多くは,「仕事」の話ではなく「就職」の話をする。ゆえに,「就職できなかったとき」を「負け組」と捉えたりしがちになる。「地方」という場で仕事を考えていこうとした時,実はこういう視点はとても重要なのではないだろうか,と思っています。

川口の場合

川口さんは滋賀大学で4年目を迎えます。

今年の一つのミッションとしての一つに,「歴史教育を考える」ということを柱においているとのこと。川口さんはもともと「シティズンシップ教育」の研究をしていたため,海外との教育比較やどちらかといえば公民的分野に軸足を置いていたのですが,大学院生で「歴史教育」をやりたいという学生が多いこともあって,「多元的社会の中での歴史教育」を考えることをしたいと思っているようです。

南浦自身が大学生の頃は滋賀大学の学生だったこともあるので,記憶に残っているのですが,社会科教育の選修で4年間過ごしていましたが,なかなか「社会科としての歴史」という観点は学生時代に持ち得ないものです。「歴史とは歴史を教えることなのだ」という前提は強くあって,「社会をよりよくする観点を持つために,市民的な資質をつけるために歴史を学ぶのだ」という観点はほとんどありませんでした(私だけかもしれませんが)。

今もなお,学生たちの意識の中にそうした視点は多分にあるでしょうし,「学校教育の中で歴史は何のために行うのか」を再構築していくことは重要かもしれません。とくに,文学部的にゼミの個別指導を主体におく大学では,自分の所属する学問ゼミが絶対的になりやすくもあり,学生たちにとっては新しい刺激になるのではないかと思います。

もう一つのミッションは,「評価問題」の捉え直しの授業だそうです。こちらは,滋賀県の高校入試が次第に変わりつつあり,「思考力」を測る評価問題が増えているとのこと。ところが当の学生自体はとても素朴な「評価問題観」を持っており,このままでは「テスト」の変化に学生が全くついていけず,結果的に旧来のテストイメージで授業をしていきかねないという危惧だそうです。

そのために,高校の評価問題の分析をしていきながら,何が問われているのか,だからどうすればいいのか,を考えていきたいとのこと。


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このように,私たちも新年度にあたって,新しい職場状況,あるいはこれまでの職場の中で見えてきた学生の課題やあらたな大学としてのミッションを見据えながら,自分たちの実践を始めようとしています。

「実践を当事者として語る」という「これからの社会科研究会」の一つの柱を自分たちでも行いつつ,2016年,新しい研究会としての試みも考えていきたいと思っています。(メンバーの1人,私はついに担当部署は「社会科」ではなくなり,また変化していくかもしれませんが・・)


どうぞひきつづき,よろしくおねがいします。

2016-03-28

第9回「授業構成論って何だ!?大学の授業でどう扱っているか!?」

 こんにちは。後藤です。
 今回の活動報告は,2016222日に話し合った内容のまとめです。

 前回,私たちはこの一年の教育研究活動を振り返っていくうちに,

ゼミ指導に力を入れている→授業開発研究に取り組んでいる学生の悩み→授業ができないって?授業開発研究って?授業理論・授業構成論って?

と話題が移っていきました。そして,どうやら,それぞれが自分の大学の授業で用いている,授業理論・授業構成論の意味,用い方が違うようだ,という事が分かってきました。

 「授業構成論って何だ!?」


 そこで,上記の日にちに,「授業構成論って何だ!?大学の授業ではどう扱っているか!?」をテーマに,南浦さん,川口さん,後藤で,もっともっと掘り下げて考えてみることにしました。
 では,議論の経緯を追っていきましょう。

大まかな軸:授業を作るためのもの,授業を説明するためのもの


 まずは大まかに,前回の私たちの授業での用い方から,シンプルに言うと授業構成論には,「授業を作る」ための理論としてと,「授業を分析したり,位置づけたりする」ための理論としての,2つの機能みたいなものがあるという整理が出てきました。そして,両者は重なったり,前者が後者を含み込んでいたりもあるけれど,全くイコールでもないのだろう,と。
 そこで改めて,授業を作るための理論を,自分の授業ではどう用いているかについて,3人で話し合ってみることに。実際には入れ替わり立ち替わりの発言だったのですが,整理すると次のような考えが出てきました。

後藤の場合


 後藤は,その授業のよさを捉えるための,分析の視点として用いています。いわゆる共感型,説明型,意思決定型…と位置づけられる授業を見せるけれども,もっと目標レベルの,現実社会と関わる点では,社会が分かる・分かり方の点では,子どもの興味・関心の点では…という視点をもとに,「展開のこの部分ではこんな学習活動を行わせていて,それによって既習内容を揺さぶっている/と計画されている(という点はよいけど,こっちの視点では課題がありそう)」などと検討させ,適宜補足や整理を行う。つまり,ある視点から見た時に,その授業はどう構成されているか(+よさや課題はあるか),を考えさせるというわけです。だから,どちらかといえば「授業を分析する」ための理論という意味合いが強く,「授業を作るため」の理論としては使っていないと思います。また,いわゆる探求型,共感型,意思決定型…の区別もあまり意識していません。

南浦さんの場合


 一方,南浦さんは授業の「構成」ではなく,「学習のプロセス」の論として扱うと言います。はじめに「探求型」の授業がある,「意思決定型」の授業がある,というのではなく,子どもが面白い,何でだろうって思う時ってどういう時?どういうプロセスを踏んでいる?その上で,じゃあそういう授業をするためにはどうすればいい?という具合に進んでいく。なので,南浦さんとしては「教師の心の置き場,授業の前提」の話をしているイメージで,こういう時は共感で,授業の中でやるか,3時間くらいの単元でやるか…と,この時はこれ,という「引き出しを増やす」ような感じだそうです。先にこれは良くて,これは良くない,というのではないのです。このようにする理由として,学部2回生を想定しているので,頭でっかちな構成の話よりも,実際学びのプロセスをどう作るのかというテクニカルな要請を挙げていました。


川口さんの場合

 
 川口さんは後藤のコメントに対して,「じゃあ学生が授業作ってくる時,例えばそれまでに示した探求型の授業として一貫してない場合はどうする?」と質問。
 というのも,川口さんは「授業づくり」の理論として,例えば意思決定型ならその「型」を重視した授業づくりを指導しているからです。もともと持っている授業のイメージや作り方を広げて欲しい,でも作ったことのないものを考えるのは難しいという点から,これまできっと作ったことのないであろう授業の型にチャレンジさせているのです。
 さて,後藤は「探求」「問題解決」などとしては一貫してなくていいのでは?」と言いつつ,「でも評価する時,一貫していなかったら…」と自問自答してしまいました。それに対して川口さんは,結果的に出来上がった授業が複数の授業構成論にまたがった「ミックス」はあるかもしれないけれど,それだと中途半端にしか身につかないのではと言います。というのも,初めの頃は後藤のように授業で型を教えて,自由に授業化させていたのだけれど,そうすると理解型と事実教授の2択になってしまいやすい。これは恐らく学生達の経験や問題意識に親和性があって,「作りやすい」と感じてしまうからじゃないか。だからあえてそうではない授業構成論をベースに作らせているわけです。
 けれども一方で,授業を単純に捉えてしまったり,予めある型でしか見られなくなったりする点,さらには,その型を権威づけてしまい他者依存的になる恐れもあると,課題を感じていました。


 川口さんの考えを聞き,後藤自身を振り返ると,そういえば,そんなに型にはこだわらないけれども,例えば子どもの地域への興味・関心を促したいという目標を設定したのであれば,それに対しては授業の構成や内容,活動は一貫しているべきというスタンスで指導しいるなぁと。でも,じゃあどうやって一貫させるか。学生にしてみたら,消化不良や迷いを生み,歯切れの悪いことに。
 南浦さんも,その迷い自体が練習やステップになるととれる一方で,整理されないことが裏目に出ると指摘。そして自らの授業についても,そうやって学びのプロセスを編んでいく意識はあり,慣れてはいるものの,目標の視点が弱いとコメントしました。


 違いの背景には


このように,3者の授業構成論に違いがある理由の一つには,自分たちのどの担当授業の用い方か,またその授業を受講するのはどんな学生かの違いがあると思います。
 例えば後藤が今回話したのは,初等社会科教育学という,12年生が中心の,しかし全教科の学生がいて,34年生も3割ほどいる授業での用い方です。社会科コース以外の学生は,最初で最後の教育法の授業です。そのため,社会科授業の「よさ」「目標」はいかに暗記させられるかという点だと思っている(それは仕方ないと思っている)学生の考え方を相対化させ,「よさ」「目標」に対する見方を広げることにウェイトを置いている形です。また,後藤は社会科教育法の授業をほぼ独占(?)していて,14年にわたって指導ができる環境ということもあります。社会科教育コースの学生が受ける中等社会科教育法などでは,南浦さんや川口さんに近い考えで授業をしているかもしれません。
 こうした違いが私たちの授業構成論の語りの違いを生んでいるかもしれませんし,もちろん,うちも全教科の学生がいるよ!じゃあなんで?と,別の理由もあるでしょう。原因を探るまでには時間が足りませんでした。


さて,実はもう一つ,「社会科(授業)にまつわる理論」もあるのではという声も上がりましたが,今回は授業に焦点化されたので割愛します。次回以降のテーマにしたいと思います。

2016-03-10

第8回:コレシャ再始動の会「この1年何をしたか?」

ご無沙汰しております。川口です。

産休・育休を経て、復帰をし、ようやく1年たちました。育児と大学の教員の仕事・研究活動の両立は思った以上のハードワークでしたが、何とか1年終わったところです。

気づけば、コレシャも休止してから早1年弱。
メンバー同士、学会などで顔合わせては「どうしようか?」といっていましたが「これじゃいけない!」と、この度、重い腰をあげて再開することにしました。
今度こそ、細々と、でも着実に続けていく決意を改めてしていますので、どうぞお付き合いいただければ幸いです。

◎今回のトピック

さて、第8回のコレシャのテーマは「この1年何をしたか?」でした。
後藤・南浦・川口で、この1年の活動を振り返り、研究活動をメインに話し合いました。
お互い、それぞれの大学で、多様な研究テーマやアプローチに触れたり、そしていくつかは共同研究をしたりしながら、色々学んでいることが分かりました。
そのうち、次回の第9回のテーマ「授業構成論とは?」に繋がるテーマが見えてきたというのがこの第8回です。
では、以下で報告します。

◎話の内容

(1)  「この1年何をしたか?」

再始動ということで、まず、お互いにこの1年間で何を行い、何を学び、どう変わったかから話すことにしました。以下は簡単に内容をまとめたものです。

<後藤さんの場合>
・学校の先生方との関わりが深くなって、学習会などを設けられるようになった。今後もっとアクティブになっていけたら。
・外部の研究者や教員に自分の研究について話す機会があった
・あと、科研の共同研究(※1)の過程で、先生方にインタビューをしていく中で、社会科教育研究者の多様性に気づき、学べた
<南浦さんの場合>
・とにかくアウトプット。自分の実践を中心とした実践の記述研究,研究者と実践者の協働のありかたなどを中心に10本ほど(玉石混淆)書く。
・瀬戸内大学院生社会科研究会(※2)の実施
・異領域の協働を生かした実践研究。小規模校の中学生×大学生によるワールドカフェ,アートと社会とことばの教育の接点をさぐる研究。そこからコミュニティを活かす教育実践を考えた。
<川口の場合>
・カリキュラム開発の支援のあり方研究を続けつつも、ちょっと色々悩み中。
・滋賀で埋もれた木工芸術の教材化を、美術の工芸担当の先生と映像作家さんとのコラボで行った
・科研の調査では、国内外に行き、社会科教育の教師教育者や研究者への調査を実施した
・日本とノルウェーでの、学生に対しての人権やアイデンティティなどの意識調査の共同研究を行った(これは、南浦さんも共同研究者です)

話の過程では、南浦さんと川口が関わった日本とノルウェーの国際比較研究で、概念の多様性や量的調査のプロセスを学べた、色々事務的にも大変なこともあったけど、勉強になった、なんてことも出てきました。
お互いにそれぞれ忙しく多様な一年間だったのですが、共通しているのが、それぞれの赴任地で何年か過ごして、その地で教員養成や現場との関わりをしてみて、他領域?(特に美術の分野)との連携やコネクションの幅が拡大していったことです。

※1:川口・後藤さん・南浦さんが参加している科研「教科教育学パラダイムと社会的責任」(研究代表:草原和博先生)。35日に第1回報告会が大阪で行われました。
http://home.hiroshima-u.ac.jp/~kusahara/kusalab/gazou/160305.pdf
※2:瀬戸内社会科研究会は、山口・広島・岡山大の学生が一同に介し、社会科教育について語り合ったそうです。お互いの地域の特性なんかも見えて、活気にあふれた会だったという話でした。

(2)  「授業開発研究って何?」から、「授業構成論って何?」へ 


その後、話は、ゼミ指導についてになりました。
川口・後藤・南浦共々、ゼミ指導に熱心に取り組んできました。

◎授業開発研究の進め方

卒論締め切りの直後だったこともあり、話の中で、ゼミ生がどのような研究をしているのかになったのですが、その際に、話題になったのが、「授業開発研究をどう進めるか?」ということ。
 社会科教育学で行われる授業開発研究においては、

 (1)問題意識の明確化 
 (2)先行研究・実践を読んで、問題意識に応える授業理論(構成論?)を作る 
 (3)(2)に基づいて授業(教授書)を開発

という流れで行うことが多いと思います。(1)→(2)→(3)の流れが論理的かどうかがポイントです。
で、その時、後藤さんから

「ゼミ生が授業開発研究をしているんだけど、授業理論・構成原理から授業を作ると、常にずれるんです」「学生の中でうまく授業を作れない人もいる」

ことが悩みだという話が出ました。

そこで、南浦さんから「授業が作れないとはどういうこと?」という質問が。

これについては、後藤さんから

    目標が立てられない
    揺さぶる教材が見つけられない
    知識があっても、特定の時代だけしかない
    授業理論の理解が乏しくて、授業化ができない

というような回答がありました。

この内、教材研究(の教え方)が難しいという①~③については、3人とも共有していたのですが、④について

「授業理論、特に授業構成論がないと授業はできないのか?裏を返せば、授業構成論があれば授業はできるのか?」という話に。

ここから、「授業構成論の意味って何なのか?」について少し話しました。

◎授業構成論の意味や位置づけの違い


3人とも授業構成論を学び、自分の社会科関係の教育法(論)の授業でも使っています。さらに、話していくと、この授業構成論を自分の教育法の授業で、どのように使うのかが3人で異なることが明らかになってきました。

 ・南浦さん:学生の持っている授業観を揺さぶり、社会の学びとしての『学習のプロセス』の重要性を考えさせるため(ゆえに構成論としてではなく,学習論として教える)

 ・後藤さん:相対化させるとともに、授業の見方を示させるため

 ・川口:授業の見方や作り方の設計図を示すため(結果として、授業観を揺さぶる)

教育法の事例として、具体的には、授業の前に授業構成論を示すのか、授業構成論を示してから授業を見せるのかも、3人でそれぞれ微妙に違うことも明らかになりました。

◎授業構成論を使うことの難しさ

その後の議論で、授業構成論の難しさとして、

・構成論は演繹的すぎて、日常に還元されにくいのでは
・他者の授業のよさを授業構成論の観点からしか見なくなってしまい、本来、教師が色々持っているはずの状況や発想をそぎ落とされてしまうこと。
・子どもの反応などが観点に含まれていない・・

といったことが出てきました。

時間が迫ってきたこともあり、このあたりは議論を深めるためにも、「授業構成論」を次回のテーマに設定しようということになりました。


2015-04-06

第2回朝活(夜活) 「授業を斬ってください」ということばに込められたもの,受け止めるもの

第2回 朝活(夜活)のまとめ

こんにちは,ゴトウです。

2015年4月4日,21:30〜23:00,これ社の第2回朝活もとい夜活が行われました。

参加者は,前回と同じく南浦さん,柴田さん,井上さん,後藤です。
今回のテーマは,

「授業を斬ってください」という言葉に込められたもの,受け止めるもの

です。

議論の背景


上記をテーマにしたわけは…。

私たちは,(授業)理論と実践の関係と,大学研究者と現場教師の関係について議論してきました。私たちは素朴に,社会や子ども,学術の動向→教育課題→課題に応える授業理論→授業実践という正規の(?)ルートがある,あるいはそれを目指しがちです。このルートの過程を振り返ってみると,「大学研究者に理論を見てもらう」とか「理論の応用としての実践」という関係や役割分担なようなものが自然と出来上がっている。

それが良いか悪いかは別に,なんでだろうということを,現場の教師である私は/大学教員である私はそのルートの中で何を求めているのか,何を提供しようとしているのか,そこに需要と供給の一致とズレはないか,を議論しているうちに…

このルートの中でしばしば交わされる言葉-「私の授業を斬ってください」-が気になってきたわけです。以下,前回の南浦さんのまとめの引用です。

「そういう話をしながら次第に4人の中で出てきたのは,「私の授業を斬ってください」とは何だろうか,ということです。実践当事者と実践非当事者のアドバイザーが関わるとき,教科教育の関わりでは往々に,この「斬ってください」という言葉が飛び交います(あるいは「叩いてください」)。しかし,「斬る」とは何でしょうか。」

議論の内容


「斬る」-ざっと考えただけで,意味がたくさんありそうです。そこで議論は,まずは自分たちの「斬る体験」あるいは「斬られ体験」をブレーンストーミングするところから始めました。

「斬る」の多義性


こんな斬る体験,斬られ体験が出てきました。

  • 授業実践について,同僚や同じ研究会の内々のメンバーで意見を「言い合う」場面と,それを踏まえて学外や他の研究会など,公な場で発表する場面の2つが大きくはあるような気がする。前者は,「本番」に備えて議論を「くぐらす」とか,(同僚間で)総力を「結集する」といったニュアンスも。後者は,先日の話にも出てきた,自分(たち)では気づかない点を指摘してもらう,お墨付きをもらうなどといったニュアンスで「斬られる」。

  • 大学の先生に「斬ってもらった」経験から…斬る目的には,授業の仮説を高めていく,より良いものにしていく,指導要領との関係が分かる,大学の研究者と現場教師とで理論と問題状況を共有する…などがありそう。

  • 研究・実践を進めていく上では,自他の立場や位置づけ,あるいは自他の研究・実践上キーとなる概念や用語を,他の研究や概念・用語と「区別する」,「切り分ける」っていう意味で使っているかも。要は,交通整理

たぶん,これをお読みの方にはもっと色んな体験や用法があるのではないでしょうか。

でもメンバーに共有されていたと思われる点は,斬った,斬られた「あと」にあるものを重要視していることです。ただ斬られるだけでは痛いだけ。斬られることで,整理や位置づけ,改善の視点やお墨付き…が得られる。

仮にこういう「見返り」のある「斬る」が「よい」斬るだとしたら,それが成立する要件は何なのでしょう?結果がよければ,どんな「斬られ方」をしても良い?斬る目的や,斬ることによって得られる効果はさておき,斬るって何だ??どういう行為なの?

「斬る」「斬られる」に潜むもの


議論はより掘り下げたものに。ちょっと雑多になってしまいますが,以下に重要な論点を孕んでいそうな,メンバーのコメントを挙げます。

  • 例えば,現場教師と大学教員との関係で言うと,同じ「斬る」でも,徒弟的な指導の関係の中でと,割と研究者の理論をある程度相対化して意見を言える関係の中でと,よりフラットで協働的な関係の中でと…などでは,どこがどう同じ?違う??

  • でも,フラットで対等な関係の中で,「斬る」っていう言い方は馴染むの?例えば僕たちは今,コレシャで斬り合っているの?議論する=斬り合う?

  • 斬る,斬られるにメリットがあるとはいえ,「痛み」が伴いそう。だから,場合によっては斬り返してやろう,みたいな。例えば,そんなに露骨ではないけど,「本論に対して〜という点からの指摘・批判もあろうが」などと予防線(という名の斬り返し)を張っておくとか。何か,構えたような感じになる

  • 確かに,自分(たち)では気づかなかった点を指摘されるのは良いこともあるが,極端に「難しい話」だと「はぁ,そうですか,スゴイ」と思考停止してしまう。斬られ損ですね(笑)。アイツ,斬られたのに気づいてないゾ!とかも。
ん?私たちの中で,「斬る」が揺らいできました。斬るは単に意味が多様なだけでなく,ネガティブなニュアンスもあり,斬る側,斬られる側によっては斬れない(=斬るが成立しない)ときもある。
では,上の方に挙げた「見返りのある斬る」を成立させるには?

斬る側,斬られる側の一方向的な関係ではなくて…例えば研究授業のようなときにAさんの指導案を斬るのだとしたら,斬り役のB,C,D,Eさん同士も斬り合うのはどうか。なんか健全!!(笑)
でも,発言力の大きい先生がズンと構えていたら?うーむ。。。

「斬る」「斬られる」を超えて


例えば,「これどうなんでしょうね,掘り下げてみたらもっと面白くなりそう,一緒に考えていきましょう」…といったもの(言い方の問題と言われてしまうかも知れませんが)はどうなるのか。斬り役を当てられたとき,時々このように言いたくなったり,実際言ったりしないでしょうか。この言い方は一見,明確に方向性を示していないし,理論でもないので,「斬れ味が悪い」とされそうなんですけれど…
斬らなければ,良い理論・実践は生まれないのでしょうか。

今回,議論は広がるだけ広がって収束しませんでしたが,「斬る」という言葉は一見汎用性の高い言葉であるけれども,それでも言い表せられない関係や「斬る」(ことによる見返り)が成立しない状況もある私たちはそんなことを再確認したような気がします。

最後に,おぼろげながら見えてきた論点を挙げておきたいと思います。

  • 位置付ける,改善点を指摘する…ではなく,なぜ「斬る」なのか?痛みが伴いそうなイメージがつきまとう言葉を幅広く使うのでしょうか?

  • 斬るというと,誰が誰をということを思いがちだが,結局,(一方向的に)理論で実践をっていう話なのかな??逆はない??

  • 斬る,斬られるの関係は,社会系教科に固有の,もしくは特徴的な文化(?)なのか?確かに,社会科には◯◯主義社会科,社会◯◯科,◯◯学習など,教科の本質や目的に関する議論が盛んで,それらの主義主張から樹形図的に授業理論も派生してきている形。理論で実践をという形ができやすい??